ものずき
ヘルシング邸の襲撃の惨状も、今は跡形なく払拭されたかに見えた。
屋敷のどこを見ても、あの血みどろの悲惨な跡はなかったし、新しく雇い入れた機関員の替わりの傭兵はやはりプロで、化け物相手の戦火は経験したことがなくともその能力は極めて高かった。
「さすが、ウォルターだな。ヘルシングにとって使えるべき人材を見出だす目を持つ者は、お前以外にはおらんよ。」
全幅の信頼を受けている忠実なる執事は、その言葉に丁寧に頭を下げたが、そのありがたい言葉を授けた女主人の平素と変わらぬように見える顔つきや言葉に違和感を覚えるのは、長い付き合いのあるヘルシング家の執事だからであろう。
――やはり、お嬢さまはまだ気に病んでおられる・・・・・・
先の襲撃で部下を守れなかった自分の不甲斐なさに、鋼鉄の・・・・・・氷のような・・・・・・と仇名されるこのヘルシングの長は、その素振りを隠しつつも、やはりかなり気に病んでいるのだ。
確かに、あの事件を気に病むな――と云うほうが無理なのだが。
――そうだ、ここは何か気が紛れることを・・・・・・!
そう考えた歳経た執事は、「そう言えば、屋敷の警護が以前より少々手薄になっている件につきまして、お嬢さまにご相談があるのですが・・・・・・」と、切り出して、この女主人が昔から心に秘めていた念願を叶えてやるべく提案をしたのだった。
――何故、あんなものを屋敷の中に招き入れた!?我が主は一体何を考えている?
その男はいつも無表情なことが多かったが、その夜は無表情な冷たい顔の底に明確な不機嫌過ぎる重くて暗い・・・・・・常人であれば、身震いして戦慄するような気配を振りまいていた。
屋敷の回廊で。演習場で。香り高い白薔薇が咲き誇る庭園で。
そんな夜の徘徊場所で、不死の王と仇名される異形の男を見かけたガチョウたちは、震え上がって顔から血の気を引くと、ガタガタと物陰に身を潜める。
だが、そんなことをしても、この化け物の中の化け物である男の目から逃れることは出来ないのだ。
あまりの冷た過ぎる激しい飢えのような不死者の王の殺気に、下僕の女吸血鬼までもが「ひゅっ」と息を呑むと、演習場にいたガチョウたちの影に隠れて目立たないように気配を殺そうとした。
「旦那は――元からおっかねぇ人・・・・・・いや、おっかねぇ鬼だったけど、何で今日はあんなにこえぇんだ?」
狂気を秘めた真っ赤で鋭すぎる魔眼ビームを所構わず撒き散らし、人間どもを震え上がらせ、口の片端を不機嫌そう引き上げて乱杭歯を覗かせた吸血鬼は、情が一片たりともない凍るような顔つきでふんっと鼻を鳴らすと、ようやく演習場を去ったのだった。
そんな機嫌が悪いらしい化け物に、ガチョウたちは冷や汗を零しつつ、愚痴も零し、セラスにそう訊いたのだった。
その辺の事情を、夕方、執務室で目撃した新米の女吸血鬼は、自分の師の不機嫌が由来するところを想像できたが、「たぶん、あれです。女主人の番犬の役目を取り上げられたせいです。」とは、かなり耳ざとい歳経た吸血鬼の後々の陰湿な復讐が怖くて・・・・・・いやいやいや、師である吸血鬼を尊ぶ(たっとぶ)ものとして、とても口に出来るものではなかった。
まさか、自分の師である吸血鬼は、その女主人の根っからの下僕で、彼女から構ってもらえないことに・・・・・・あるいはその役目を別なものに横取りされたことに、実は心底怒っているらしい――とは、さすがの素直な彼女でも、口にするのは憚られるのだった。
「ストッォーーーーーップ、アーカード!!いいか、そこから一歩たりともは入るな!お前の入室は断固拒否する。」
いつもよりはかなり早い時間に、執務室から自分の部屋に下がった女主人の後を追うように、インテグラの部屋へと忍び込むように入ってきた男は、滑り込んだ壁から顔と右腕と左足がにょきっと出たところで、インテグラから入室拒否を告げられた。
ちょっと・・・・・・いや、かなり間抜けにしか見えない状況で、壁から半身を突き出しているのも具合が悪かった吸血鬼は、せめて身体だけでも部屋の内側に入ろうとズルズルと壁をすり抜ける。
すると「コラァ!!入るなっていっただろう、この馬鹿野郎っ、怯えるじゃないか!!」と、女主人の容赦ない叱咤が飛んだ。
確かに壁や床や天上からぞるぞると湧き出すたびに、「お前はいつになったらちゃんとドアから入ってこれるのだ、アーカード!」と叱咤は喰らうのだが、今日は勝手が違っていた。
主人はその不躾な進入方法を咎めたのではなく、入室自体を拒否したのだ。
吸血鬼はマチネ色のサングラスを取り、珍しくあからさまに不機嫌な顔つきに冷たい劫火の色した瞳で、インテグラをギロリと睨みつける。
そんな従僕の威嚇にうろたえるような柔な主人ではなかったが、今宵はその女主人の胸元に大事に抱きかかえられていたものが、きゃうんと怯えた声を立て、怯えて小刻みに体を震わせた。
「おお、可愛そうに。怖いんだな。あの馬鹿が怖いんだな。夕方、執務室でも震えてたもんな~~あぁ、こんなに震えて・・・・・・」
女は白いシャツと対照的な色合いの黒くって丸い可愛らしい仔犬を、さらに胸元に強く抱きしめて、その背に自分の頬を擦りつけた。
するとそんな優しい女主人の頬を、抱かれた仔犬がペロペロと舐め始める。
女主人の眼鏡をずり落とし、柔かくて温かい頬や額をベロベロと舐めた仔犬は、そのまま女主人の艶やかな唇にもペロペロと舌を伸ばして舐め始めた。
「くすぐったいって!おい、やめろってば。びちゃびちゃになるぞ、こら。」
止めろとは言いつつも、悦びに笑んでいる女の顔を見て、男はさらに不機嫌の度合いを増し、赤の目を細くして陰湿な紅の視線で女を見た。
自分が冷たく長い舌で、女の温かくて甘い唇を丁寧に舐め上げても、この女主人はそんな下僕の奉仕を嫌って、いつも不機嫌な顔をする。
不機嫌な顔のまま、蹴ったり殴ったりはよくあることで、たまには法儀礼済みの弾を撃ち込んだりもするのだ。
それはそれで女主人から下賜されたありがたいものである――と、男は思うのだが、やはりそんなものよりも、偶には艶かしい淫らな悦ぶ顔を見てみたいと――吸血鬼は思う。
なのにそれはあっさりと、新入りの番犬にご褒美として与えられているのだった。
「そんな仔犬のどこが番犬なのだ。そんな無力な弱き物が、ヘルシングの何に役立つと言うのだ、馬鹿馬鹿しい。」
声を荒立てている訳でもないのに、明らかに怒りを腹の底に沈めている暗い声に、インテグラは眉間にシワを寄せて男を見る。
そして、「なんだ――まだ居たのか、お前。さっさと帰ればいいのに。」と無情に呟いた。
――とにかく気に喰わんッ!こんな仔犬に大切な自分の主人の番犬の権利を与えるなんぞ、絶対に我慢ならんッ!!
そう考えた、番犬の使命に吸血鬼の尊厳を賭けている男は、緋色のコートの裾を翻して大股に女主人に近寄った。
大股で音もさせずにズンズンと女に近寄って、その長い腕を優雅に伸ばした男は、女の懐から仔犬を抓みあげようとする。
女主人がその仔のために特別に誂えてくれたらしい真紅のつや消しの皮の首輪に、真っ白い皮のグローブの指先を引っ掛けた男は、その長い指を首輪に絡め、仔犬を持ち上げようとする。
そうはさせまいと、しっかりと抱きかかえて仔犬を守ろうとした女だったが、その腕はアーカードの怪力で強引に引き剥がされ、吸血鬼の顔に爪を立てようとした愛すべき雌猫のような女の手も、アーカードは打ち払っていなした。
きゃうと悲鳴を上げた仔犬は化け物の眼前にぶらぶらと吊り下げられ、ガクガクと震えている。
アーカードが指先を引っ掛けている真紅の首輪には、仔犬の名前と飼い主である女の名前が、優美な筆記体調の金文字で刻まれていた。
女主人からこんなに贅沢な首輪を与えてもらうなど、百年早いっ!――と、百年あまりヘルシング家に仕えているのに、この女主人から首輪のひとつももらった事がない凶暴で傲慢な番犬は、口の端を皮肉気に持ち上げると鋭い牙を覗かせた。
女主人の所有であることを示す、女の主人から飼われる身であることを証明するそんな拘束の証の首輪を、きっとこの吸血鬼も欲しているのだ。
「こんな何の役にも立たん弱き番犬など、ヘルシングには無用であろう、我が主。」
――使い魔にして使役してやろうか?いや、使い魔たちの餌にしてやってもいい。・・・・・・いや、むしろ俺が噛み砕いてやろうか。
「アーカード!やめろってば!!怖がってるだろう、返せよっ!!」
女が吊り下げられている仔犬に手を伸ばし引っ張ろうとした時だった。
凶暴な肉食獣のような男の、恐ろしい目線で睨まれていた仔犬は、ぶるぶると震えながら手を伸ばした女主人に向かって、ちょろちょろと温かいものを零したのだった。
「―――あっ・・・・・・」
「あっ・・・・・・・・・・・・無礼極まりないな、こいつは。」
吸血鬼の赤い眼前に晒され恐慌をきたして粗相をしてしまった仔犬に、インテグラはこの上ない慈愛の顔を作る。そして、その仔犬が放った温かいもので濡れてしまった袖口などは一切構わずに、彼女は両手で仔犬を優しく抱きしめたのだった。
「アーカード。放しなさい。これはお前の主人の命令よ。」
いつもの指揮官のような男勝りの口調より数段柔かい物言いだったが、青の瞳をブルーダイヤの貴石の煌きに彩った、毅然とした女の顔と声に、従僕である吸血鬼は何故か抗えず、吊り下げていた仔犬を女主人に手渡したのだった。
「主人にそのような無礼を働いた番犬に、お仕置きは必要ないのかね、お嬢さん?」
女主人の懐でぷるぷる震えている哀れな動物を見下ろして、男は意地悪い口調で訊く。
「それは、お前が怖がらせたせいだ、アーカード。お仕置きであればお前にせねばならん。」
女主人はそう冷たく言ったが、もうアーカードの顔を見ようともしなかった。
女主人のお仕置きも大好きな下僕は、『では、何をする?』とでも言いたげに小首を傾げたが、そんな従僕を完全に無視した女はアーカードに背を向けて歩き出す。
「どこへ行く。道理がわからぬ大きな犬に躾けをするのではないのかね、我が主?」
「――まずは、バスルームだ。まずはこの仔も私も、身体を清めねばならん。」
女は振り向きもせずバスルームへと仔犬を抱いたまま入って行こうとする。
そして、その入口のドアノブに手を掛けたところで、女はようやく振り向くと、全ての感情をないものにした冷たすぎる面で男を見たのだった。
「アーカード。余りにも幼稚すぎてお前とは話もしたくない。不死者を統べるものと呼ばれる王様がこんなか弱いものを虐めてどうなるというのだ?お前には不死の王としての矜持も自尊心もないのだな。そんなお前には、お仕置きする価値もないぞ、従僕。」
そう言った女は、「あぁ、この仔はお前を怖がるから、やっぱりお前はこの部屋に侵入も進入も禁止だ、アーカード」と背中越しに冷えた声をかけると、バタンと勢いよくドアを閉めたのだった。
女主人に抱かれたり、その顔を嘗め回して悦ばせたり、そして排泄物を引っ掛けて大切な女主人を汚して侮辱したあとには、その上一緒に風呂に入って体を洗ってもらったりと・・・・・・
最強で最狂と言われたこの吸血鬼は、女主人とのこの上ない歓喜のプレイを愉しめるその小さくて弱いものに鼻の頭にシワを寄せて怒りを顕わにし、そして、己を蔑ろにして遊んでくれない女主人に対しては瞳孔を細めると、瞳を仄暗い紅蓮の色に染め上げて不満を顕わにした。
だか、あの女主人の態度では、今宵は何ひとつ構ってもらえないであろうことを悟った不機嫌な吸血鬼は、その夜はもうそれ以上なにもせずに、女主人の部屋をぞるぞると影になって退出したのだった。
不機嫌さを真紅の魔眼に宿し、女の領土に騒がしくたむろする傭兵たちを脅しながら、細く嗤うようなディアナが姿を現した冷えた夜の上を歩き回った吸血鬼は、番犬の役目を取り上げられた忌々しさをあちこちにばら撒いて、さらに凍える突き刺さるような夜更けを、その日、ヘルシング家の領土に作り上げたのだった。
つづく
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番犬旦那。
この旦那だったらお仕置きに吊り下げられるだけで、悦んで哄笑を上げるような・・・そんなタイプだ。いやだなぁ・・・(笑)
でも、吊り下げられて、目隠しされて、お嬢のニーハイブーツの踵でゲシゲシ蹴られて、鉛を仕込んだ鞭で打たれるってのも、悪くない・・・というか、かなり魅力的♪(この場合、それを書けるかどうかは別問題ですが)
って、「つづく」なんです。続ける気マンマンですよ(笑)
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