ニーチェ ルサンチマンのエロス
この化け物の求める、苦悩より深いといわれる「快楽」の根源は、どこにあるのか。
女はそれがどうしても知りたかった。
「従僕、お前はルサンチマンの輪の中にいるのか?」
女は冷たい声のまま、化け物に尋ねる。
ルサンチマン。それはフロイトが語る「反復強迫」の根本を成すもの。
反感 嫉妬 妬み ―――― それは、恨みそのものの位置付け。
ニーチェは言う、キリスト教にはルサンチマン(恨み)の自己内攻化があると。
神に対しては、人間の生に価値が乏しく全てが原罪を背負って生きていくのだ・・・という思想にもつながる、ルサンチマン(恨み)の自己内攻化。
しかし、女が化け物に問うたのは、自己内攻化ではない。
問題はルサンチマンはエロスのひとつとして、世に存在しているということなのだ。
化け物の男にとっては、女の問いは予想できるものだったのかもしれない。
自分が人間の年老いた男に敗れ、誇りも自尊心も打ち砕かれた屍(かばね)を晒し、その眷属ともいえる身分に囚われ従属させられている事実は、確かにニーチェのいうルサンチマン(恨み)といってもいいのだろう。
そして、打ち勝つことが出来なかったその時の欲望の挫折は、ルサンチマンのエロスとして存在することは確かなのだ。
男は、薄く笑い女の問いに答える。
それはこの男の棺にも刻まれるあの文字。
「私はヘルメスの鳥
私は自らの羽を喰らい飼い慣らされる
時に嬉々として
時に憂鬱に
時に気紛れに
その羽を拡げる」
低い魅惑するような声音で男は歌うように、そう女に告げる。
自己処罰がなければルサンチマンのエロスを昇華し、次のエロスへ結びつけることは出来ないのだ。
関係性のエロスを持ちうるためには、己の「何か」を我慢しなければならない。
「何か」を我慢するという自己処罰を課してこそ、新たなエロスへの段階を踏むのだ。
化け物の自分は、「飼いならされる」ことによって、主から認められるというエロスを得ているのだと、美しい女主に返したのだ。
自らの意思によって飼いならされているのだと、
ルサンチマンの矮小なエロスの輪廻になぞ捕われているのではないのだと、
自分は自己処罰を越えたところにすでに存在しているのだと、
それは己の羽を喰うという痛みを伴ったとしても、得たいエロスなのだと、
化け物の男は、そう女に告げたのだった。
女はその時、男が何故、棺にあの言葉を刻んだのか真意を理解する。
それはこの化け物自身の、次へのエロスへの発展を示しているのだと。
そして主である自分との関係性を、強烈に示しているものだと、男の言葉で告げられて、それを理解したのだった。
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(ちょみっと追記しております・同日22:00)
ということで、七年前のFDの文章をサルベージ中。
今日は午前中お休みです。(昨夜から今朝まで仕事してたので・・・)
どう考えてもこれをワタクシのバタイユ考察へもっていくには、この二人がすでに肉体的快楽を一度でも共有したという背景が必要になるので、やはりパラレルしか持って行きようが無い妄想かもしれない。
ルサンチマンは己が存在していくことを決して肯定できないエロスです。
「世界はこうあるべきだ」という怒りを発するエロスとでもいうのでしょうか。
その意味では、人間を止めた時の旦那は明らかにルサンチマンのエロスによって「化け物」へと変化したのだと思うのです。
その反対はニーチェの言う「永劫回帰」(永遠回帰)。
彼の著書で宣言された「神は死んだ」という世界に転落した旦那は、化け物に変わったことによって、皮肉にも永劫回帰を体現する稀有な存在になったと思えるのです。神の死を身をもって感じた人間の旦那は、化け物に変じたことにより永劫回帰という救済策にはまり込み、長い歴史を自らの意思によって招来してきたと感じます。
そしてそれがあの、「私はヘルメス・・・」に象徴されていると感じるのです。(七年前のことなので、当時の思考はもう遠い彼方なのですが、たぶん当時はそんな理論付けを自分でしていた??)
※この場合の「エロス」は刹那的な放蕩ではなく、自分の望むことをギリギリまで求めたい、存在することへの意欲を奮い立たせるものである、ニーチェでいうディオニソスを表わしたエロスの原理。
しかし、七年前の自分は、旦那の棺の文を自分なりに理解していた(曲解していた??)のだと、今読むと変に感心したりして(笑)
というか、昔の方が少しはマトモな思考をしていた?
今よりは幾らかは頭が回転していたのかもしれない。(笑)
これだけの文章をまとめるのに、いつもの三倍掛かってます(三倍って、赤い彗星かよ!)
今になってニーチェとフロイトを読み返すのはかなりの重労働。
でも、もやもやしたままは嫌なので、それなりに完結したい・・・と思ったりします。
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