クロイツェル・ソナタ その9
――どうしてこんな事になったって云うんだっ?!
インテグラは己の後頭部に手を添えて床に頭が触れないように支えながら、口内をぴちゃぴちゃと淫らな水音を立てて貪っている男の背中を拳でドンドンと叩いた。
大きな身体で圧しかかられ、床に潰され、身動き出来ない事態だけで充分苦しいのに、さらに男はひんやりとした唇を押し付けてインテグラの口内を貪るように舌を這わせ、呼吸を塞いでいた。
父親の頬にキスをしたり、子供の頃は執事や父の友人の頬にキスをすることはあった。
大学に通ってからは好きだと言われた相手に多少強引にキスをされたが、今のこの状況を考えると、それでさえ挨拶のキスの範疇だろう。
相手の口内に舌を挿し入れ、歯列や頬の内側を突きまわして嬲り、舌を絡めて吸い上げるような濃厚な接吻などしたことがないインテグラは、舌で口内を犯すように貪る男の接吻に半ば恐慌を来たしていた。
何とか息をしようと、インテグラは合わせた唇の隙間から唸るように声を上げ、男の背を拳で叩いて暴れてみたが、唇は外される気配もない。抵抗すればするほど、それはかえって舌を絡め取られ吸い上げられる、濃密な交わりになるだけだった。
酸素を求めて喘ぐ胸は激しく上下して、酸欠しかけた脳内は白い靄に覆われはじめる。
インテグラは抵抗する力が抜け、くたりと床に身体を預けたのだった。
「――おい、息を吸え。ゆっくりと大きく吸うんだ。お前はキスの仕方も知らんのか?どれだけ初心なのだ、坊や。おいっ――聴いているか、インテグラ?」
ペチペチと軽く頬を叩かれたインテグラは、細く目を開ける。
目の前を覆うのは漆黒の絹で出来た天蓋。それを透かして部屋の白々しい照明が目に入り込む。
背中の感触は硬質で冷たい。床の上に寝せられ、そしてその上には誰かが覆いかぶさっているらしかった。
インテグラは目をしばたたかせる。
マクスウェルと大人気ない取っ組み合いの喧嘩をし、髪をつかまれスチール家具に打ち付けられた。そして痛さで呻いてしゃがんでいると、その場を納めて取り仕切ったらしい男の声が上から降ってきたのだ・・・・・・
「やられたな。―――口の中を切ったようだな。」
低い声は脳を犯す熱を隠した妖しい響きだったのを、インテグラは覚えている。
「やられてなぞいない。これは互角だ!髪を―――髪を掴まれたせいだ、畜生っ!こんな邪魔臭い髪、ばっさり切ってやる!!」
負けず嫌いのインテグラは俯きながら自分のジンジンする頭と頬を撫でた。ぶつけられた衝撃で、口内を切ったらしい。
「ばっさり切るだと?!―――それはいかんな。戦うのに邪魔であるのなら、自ら戦わねばいいだけだろう?手足となる兵を縦横無尽に駆使すればいいだけだ。」
この男は何を言ってるんだ?―――そう考えたインテグラの側に自分も膝をついたらしい声の主・・・・・・そう、インテグラが嫌うあの男は、俯いていたインテグラの顎先を指で掬って顔を上向かせる。
「これは―――堪らんな。誘っているのかね、坊主?」
漆黒の王様は、インテグラに強引に自分の唇を重ねてきたのだ。
唇の端から滴った血を舐め取っている男を振り払い、「何故、口を切ったのが分かった?」と問おうとしたが、その唇はすぐにまた深く塞がれた。
そして息ができず気を失いかけるほど男に接吻を施されたのだ・・・・・・!!
そう気付いたインテグラは慌てて身体を起こそうとする。
しかし、未だにインテグラの身体の上にはあの男が身じろぎも出来ぬほど圧しかかっていて、その巨躯はインテグラの動きを封じていた。インテグラの顔を覆っているのは、男のあの漆黒の髪なのだろう。
自分の身体の下でもぞもぞと身じろぎはじめたインテグラに、「ふむ。気がついたな」と言った男はくつりと喉の奥で笑う。
そしてインテグラの顔に再び己の唇を近づけると、「では、先ほどの続きをしよう、インテグラ」と艶やかなヴェルベットボイスで囁いた。
黒い冷たい絹糸のような髪を透かして覗いたのは男の瞳なのだろう。それはいつものボルドー色に近い茶色ではなく、それはインテグラの瞳には――まるで紅玉のように映った。
「やっ―――やだっ、放せっ!」
唸るように威嚇するインテグラに、男はまたくつりと笑う。
「その活きの良さがそそるな」
唇を合わせながら呟いた男は、再びインテグラの口内を貪りはじめた。
内壁を執拗に舌先で嬲られると、ヒリヒリと痛む。多分その辺りを切ったのだろう。
インテグラが痛みに眉を寄せ顔をずらそうとして、コンと後頭部を床に打つ。すると腫れているらしい箇所が振動でズキズキと痛み、インテグラの青の瞳は生理的な涙で潤んだ。
「だから暴れるなと云うのだ。」
口を合わせたまま息を吹き込むようにそう囁いた男は、インテグラの後頭部に手を回し髪に指先をするりと潜らせる。
またズキリとする痛みが走るかとインテグラは身構えたが、男の手は存外に丁寧で優しく、インテグラの後頭部をそっと衝撃もなく支えるのだった。
口の中の傷口の辺りを執拗に嬲っていた男は、ようやくその舌先をインテグラの口内から引き抜く。
離された唇からぴちゃりと卑猥な水音が部屋に響き、ふたりの唇の間を銀色をした蜘蛛の糸のような唾液が繋ぐ。
口の端を引き上げてニイッと嗤った男は、再びインテグラにひんやりとする唇を寄せ、今度はその頬や首筋を愛撫しはじめるのだった。
「やんっ―――や、ヤダ!止めろ、変態っ!」
これほど濃密な口づけは初めてだったインテグラは、思った以上に口内が敏感な器官だと思い知り、背筋を震わせるその感触に、我知らず肌を粟立てていた。
そこで、さらに愛撫を受けた耳朶からは、身体中が戦慄くような衝撃が走り、彼女は思わず背を反らして、「はぁ・・・・・・んっ!」と自分でも驚くような鼻にかかった甘い喘ぎを漏らしてしまう。
自分の上げた嬌声に近いその声に、インテグラはカアッと頬を上気させた。
――こんな・・・っ、こんなのってありなのか?!
激しく狼狽した彼女は圧し掛かって耳朶を甘く食む男を罵ろうと、大きく息を吸う。
「無粋な坊主だ。ここに人を呼ぶ気か?男から襲われて嬲りものにされている姿を、他人に晒す気かね、インテグラ。」
男は耳を食みながらそう低く呟く。
耳朶に直接吹き込まれる脳の神経を麻痺させるような声が呟いた言葉に、インテグラはハッと息を飲んで、甘く噛まれた耳朶に再び身を震わせた。
顔を強張らせ身体を震わせる若い同僚に、男が押し付けてきた腰の感触―――自分の腹の辺りに当たったその硬質な感触に、インテグラは今度は頬を青ざめさせた。
「このっ・・・・・・この野郎、この変態っ!放せ、馬鹿!!何で欲情してんだよ、この馬鹿っ!――お、男に欲情すんのか、アンタはっ!?」
インテグラは部屋の外に聞こえないくらいの声で、自分を愛撫している男を罵倒する。
未だに処女を守るインテグラは初心で奥手で、そう言った欲望の発露には全く以って疎かったが、それでも腹に当たる明確な硬さが物語る意味を理解はしていた。
この男は―――自分に接吻を施しているこの男は、明らかに欲情しているのだ。それも自分を坊主だの坊やだの呼んでいるのに・・・・・・同性だと思っているのにだッ―――!
「変態とは心外だな、坊や。前にも言っただろう?俺は気に入れば老若男女の区別などない。気に入ればそれでいい。何も問題はない。」
「問題がない訳ないだろうっ!?アンタは本気で、男同士で、その・・・・・・なんだ、そう言う行為をする気なのか?冗談じゃないっ!」
「何も問題はない。それとも、男同士ではセックスが出来ぬとでも?
そもそもお前が男でも女でもどちらでも良いのだ。性別が何の障害になる?私には老若男女の区別など無意味だ。それに気に入った相手と唇をあわせれば、こんな風にいきり立つのは、男の生理としては当たり前ではないのかね?――それともあれか。お前はそんな経験がないとでも?幾ら坊やでも、その歳で知らぬ訳はなかろう?なぁ、インテグラ。」
耳元でニヤリと嗤ったらしい気配の男の言葉に、インテグラは息を飲んだ。
まさか自分は男じゃなくて女なんです、それも処女なんです、そんな男の生理なんぞ知る機会もなかったし、全く理解出来ません――とは、さすがにこの状況では口に出来ない。そんな事を口にすればさらに危うさを増す状況になるだろう。
この男は、ゲイと云う訳では無さそうなのだ。気に入れば老若男女の区別ない、バイセクシャルと云う人種なのだろう。つまりは選好みは極めて激しいくせに、節操がないという最悪のタイプなのだ。
何やら面白そうにくくっと嗤った男は耳朶から唇を放すと、インテグラの白鳥のように気高く凛とした美しさを持つ首筋に、触れるか触れぬかの唇での愛撫をはじめる。
「気に入った。お前は愉しすぎる!こんなに愉しいのは久しぶりだ―――初めてであれば恐いだろうが、痛くても死ぬようなことはない。そんなものは最初だけだ、すぐに慣れる。そして時間をかけてゆっくりと馴らしてやろう。
今日ここで最後までと云う訳にはいかんが、初心なくせに生意気な、そして用心が足らん坊主に私の痕(しるし)を残すくらいは必要だろうな。お前には色々と隙があるのを少し思い知らせる必要がある。」
時折、動脈を食むように口づける男の唇にインテグラは肌を総毛立たせる。
男から押し倒され、不本意に唇を奪われて愛撫されて。本来なら嫌悪感以外の何物でもないのに。なのに首筋から小波のように広がる感覚は身体の芯を震わせて、明らかに嫌悪以外の何かを持ってインテグラの身体を覆っていく。
男の片手の指先が結ばれていたタイに触れ、その結び目を器用に絹擦れの音をさせて解きはじめる。そして貝ボタンのひとつを外し、ふたつ目に手を掛けたとき、さすがの彼女もこれ以上ない危機を感じた。
このまま手を這わせられれば、当然女だとバレる。幾ら胸の膨らみを潰すような下着をつけていても、これでは性別が暴かれるのは時間の問題だった。
――嫌だっ!こんなの・・・・・・っ、こんなヤツ!誰が好き勝手にさせるかっ!!
意を決した彼女が背筋を覆う快楽の気配の小波をはね除けて、男の耳を噛み千切る気で首をもたげた時だった。
殺意にも近い敵意を剥き出して首をもたげたインテグラからあっという間に唇を離した男は、身体を起こすと眉根にシワ寄せて呆れたような表情をした。
そして鼻の頭にシワを寄せ、唇を捲り上げ、気性の荒い雌猫のように威嚇するインテグラを覗き込むと、片頬を皮肉気に持ち上げる。
「全く信じられん行儀の悪さだ。私の耳を噛み千切る気だったな、小僧めっ!この俺に噛み付こうというのか?何とも強情で観念を知らぬ―――――」
男は何を言おうとしたのか・・・・・・
珍しく言葉を飲み込んだ男は、皮肉っぽく肩をすくめる。
そして今日のところは自分が手をつけた刻印(あかし)をつけ損じた新入りの男に、冷酷で厭な笑いを見せて立ち上がったのだった。
ヘルプを要請してきた漆黒の男に、「今夜はベルナドットのヘルプが入っていますので、お断りします」とキッパリ返したインテグラは、相手が軽く肩を竦めただけで、それ以上無理難題を言ってこなかったことに、ほっと安堵の息を吐く。
今夜この男は、王様の高慢さをこれ以上発揮する気はないようだった。
もうこれ以上揉め事に巻き込まれるのは御免被りたい――そんな新人のあからさまな顔を、冷たい顔で皮肉気に見下ろした男は、ニヤリと性悪な笑いを作り、茶色を帯びたボルドーと謂うより、月の下で見るガーネットのような赤に見える目を細めた。
「――まだここにも血がついているぞ、インテグラ。」
そう言った男は、彼女の顎を指先で縫いとめ、長身を屈めて彼女のその口の端にひんやりとする舌を這わせたのだった。
固まりかけていた血を舌先で削ぐように舐め取る男をぶっ叩いてやろうとインテグラは腕を振り上げる。すると、するりと音もなく身をかわした男は白皙を仄暗い嗤いに染めた。
「そろそろ始まりの時間だ」
冷え冷えとした声でインテグラにそう告げた、漆黒の傲岸不遜な王様は巨躯を翻す。そしてあっけないほど静かに会議室を後にしたのだった。
あの男の視線も、声も。それはまるで剥きだしになった神経を氷柱で撫でるように、インテグラの身体をいつも震わせる。
インテグラは自分の奥深くに渦巻いている衝動に、悪寒とも嫌悪とも言い切れぬ身震いをして、落ちていた眼鏡を探すと、男に乱された襟元を正し、撚られてしまった長い髪を手櫛で梳きながら、大きく息を吸って呼吸を整えた。
漆黒の髪を透かして覗き見えた、紅玉色の瞳。
人をびくともしない程押さえつける怪力。
自分の口内の傷を嬲り血を絡めとり、唇の端についた乾き始めた血さえ執拗に舐め取る行為。
そして、この店では、働く男が忽然と消えると云う・・・・・・
あの男は気に入れば老若男女の区別などない。気に入ればそれで何も問題はない――と言い切ったではないか?!これらの符号は・・・・・・繋がったのではないのか?私は宿敵である一族を、人間と思わされていたのではないのだろうか?
インテグラはそんなことを考えながら、男が出て行った扉を見つめて口元を厳しく引き結ぶ。
しかしだ。
酒も飲めば食べ物も口にする。日の下も平気で歩く。シャワーも問題なく使う。それにインテグラが使う十字架のピンも畏れないのだ、あの男は。
それらが平気な吸血鬼など、インテグラは聴いたこともなかったし、見たこともない。もし、そうであればだ。それは規格外の―――最上級で最強の宿敵かもしれない。
インテグラは厳しい顔をして立ちすくんだまま、心配して様子を見に来たベルナドットに、心ここにない返事をしたのだった。
つづく
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と言う訳で続きます。まだまだ続きます。
この計画性のない、長い連載・・・引かないでぇ~or2
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