到彼岸〔とうひがん〕・妄想MEMO 嗣業の土地 その3をアップ
【個人的妄想のメモと気が向いたときの近状記録】 ここはヘルシング同人サイトの2次創作専用のブログです。 妄想の糧やオタの日常を呟いています。 心当たりがないのに、何故か迷い込んでしまった方は、速やかにお帰りくださいませ。
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ようやっとパラレルをアップ。
まだまだ続くんですよ、これが(苦笑)長い目で・・・いや、生温い目でご覧下さいm(__)m





以下、旦那とメフメト二世考。そんなものをつらつらと。

今回パラレルで使った、ムスリム文化と四人の嫁。
当然旦那はそこら辺、ムスリムの風習(割礼を40日もかけてお祝いする帝国の風習だとか・・・)を御存知だろうよ、そうだろうとも!!と云うわけですが、その当時のオスマントルコで、複数の妻を持っていた男性の割合は5パーセント前後だったそうです。
意外と少ないというか。

あちらは結婚にかなりの資金が必要なので、そうそう結婚は出来ませんし、出来たとしてもそれは財産を蓄えた晩年だそうです。なので複数の妻を持つことは難しい・・・ということなのかもしれません。

でも、複数の妻を持つよりも、もっとステータスが高かったのは、『キリスト教の女奴隷』あるいは『女奴隷』を持つことらしかった?模様です。
当然、イスラームを信じる女を奴隷とすることは戒律で禁じられていますので、女奴隷は必然的に異教徒。そして、当時の女奴隷の多くはキリスト教信者です。

大変高価な女奴隷を買って、屋敷に住まわせる。コレ最高の贅沢〜という具合。

しかし、庶子でも相続の権利を持っていたムスリムでは、その女奴隷が『妻たち』にとって最大の脅威だったのは、確かなようです。
キリスト教圏では、当時、庶子は肉の快楽だけを追及した結果生まれた、『人間として不完全なもの』だったのに対し、ムスリムでは奴隷に産ませた子は妻の子と平等に扱われました。
なので、オスマン帝国には、奴隷を母に持つ帝王が居る訳です。(ほとんどの女奴隷の母は、わが子が帝王になると改宗してムスリムになるようですが)

そこら辺、結構ムスリムは寛容だと思えます。
デヴシルメしかり、そこから発生したイエニチェリしかり、女奴隷の子しかり。『やわらかい専制』と言われたオスマントルコが、長期に渡り大国を維持できたのはその辺りに由来すると思われます。

ちなみに日本にも『借り腹』という考えがありますし、妾の子でも後嗣になれたことを考えれば、仏教とムスリムは、割と寛容だと感じたり(笑)


そして旦那のライバル、メフメト二世(ここではこの名で統一させていただきます)の母ヒュマ・ハトゥンは、異教徒の女奴隷であります。
旦那から見れば、当然彼は、『庶子で女奴隷の子』風情といった身分だったのでしょう。己(旦那)の母が、モルドヴァ公アレクサンドル善良公の娘だというのを考えれば・・・

ですが、その旦那とほぼ同い年の、奴隷を母に持つ子供が、一度は12歳で即位し(その後、父から王位を追われますが)、帝国の頂点に立ったわけで、その辺り旦那はどんな風に見ていたのだろう・・・と、常々思うのです。

当時のオリエントで最高の知識を持つひとりと讃えられ、トルコ側から見れば『戦略家』、『天才的組織力を持つ男』、『知識人で人文学者』であったファーティフ・メフメト(征服王メフメト)は、旦那から見れば『悪の権化』、『反キリストの先駆者』、『サタンの軍隊の帝王』、『黙示録の赤い竜』であったのは、確かだと思うのです。

メフメト二世を『反キリストの先駆者』と罵っていた己が、結局、『反キリストの先駆者』に堕ちるという構図が、旦那の長い道のりの始まりであるわけです・・・
そこら辺の、旦那の人間でいることにいられなかった弱さと無常とが、ヘルの奥深さを作りだしているんだろうな〜〜と、閣下の話しの持って行きかたに、スゴイよ!!と頭を張り倒された気がしたりしたのです。



そしてメフメト二世から見たワラキアのヴァイヴォード(オスマントルコから統治を託された総督)、ヴラド三世テーペス(テーペス=ツェペシュなんでしょうかねぇ ?トルコ側の記述だと、「カズィクル・ベイ」だったり、「ヴラド三世テーペス」だったりと、色々ですが)は、『最悪の蛮族』であっただろうと思うのです。

自分の父、ムラト二世が人質として預かっていたテーペス(恐らく旦那は、当時の最高水準のオスマンの英才教育機関、ムスリム文化を教育させるデヴシルメに属させられていたと思われる)。
自分が退位させられた後、再び即位した父・ムラト二世が臣従国ワラキアの封臣としてテーペスを認め、ヴァイヴォードとして任命したことに、後に即位したメフメト二世は、憤りを感じていたのではないかと思うのです。


自分の父は(ムラト二世)は、何故あんな厄介な蛮族をヴァイヴォードに任命したのか。
人を見る目を持たずに、テーペスを封臣としてヴァイヴォードに任命した父の尻拭いを、何故自分がせねばならぬのか。
この男のせいでブルガリア(当時はすでにオスマントルコの直轄領)が荒らされ、2万人のトルコ人・ブルガリア人が串刺しにされた大損害を受け、その上ハムザ・ベイ提督まで殺された!
・・・と、メフメト二世が憤慨したことは間違いないと思うのです。

父・ムラト二世への怒りと、ヴラド三世テーペスへの怒り。

メフメト二世が味わった『挫折』は、明らかにベオグラードを屈服させられなかったことであり、フニャディを倒せなかったことであると思うのですが、テーペスにしても、スカンデル・ベグ(彼も父が敗北したのを切欠に、オスマンの人質→デヴシルメ→イスラームに改宗→メフメトの寵臣→アルバニアの県知事にしてオスマンの将軍に出世→そこから突然離反してキリスト教に改宗し、メフメトと徹底抗戦)にしても、彼らの熾烈で執拗な抵抗には、『狂暴な蛮族にうんざりさせられた』くらいの打撃は与えられているはずだと思うのです。

あの個性的な征服王を『うんざりさせる』くらいの残忍さを発揮した、旦那の蛮行。
そんな残忍極まりない、トルコ側から見れば『蛮行』のひと言に尽きる旦那の生き様を、本当はもっと『伯爵』で・・・あるいは、ヴラド三世テーペスではなく、『ヴラディスラウス・ドラクリヤ』で、書いてみたいなぁーーーなどと、時折思うのです(でも管理人はメフメト二世贔屓なので、旦那が虐げられるのは間違いないでしょうが・・・)



ちなみにトルコ側の記述では、討ち取られた旦那の首は、トルコ人によって、ヴラド三世が蛮行をもって残忍な支配を行った町々を巡り、あちらこちらで晒し者にされることになった――とあります。

塩漬けにされたのか、干物にされたのかは定かではありませんが(恐らく「塩漬け」だと思いますが・・・)、旦那の首が彼が統治したり虐殺を行った町々で晒されて、トプカプ宮殿に持ち込まれ、「帝王の門」と「挨拶の門」の間に広がる中庭(ここには一般庶民が出入りできる帝国の一種の広報空間)にある、『警告の石』(重大国事犯の首を晒すための置き石)に置かれるまでは、きっと何ヶ月もかかったのかしら・・・と推測したりいたします。(トプカプに運ばれたという記述はありますが、『警告の石』に晒された――とする記述はないので、ここら辺は管理人の妄想)


まあ、そんなメフメト二世とヴラド三世の攻防や、ドナウ戦での処々を下地に妄想しながら、パラレルが進行していくので、アチラは色々とでっちあげが続くと思われます。御容赦をm(__)m



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