・新設した報道規制当局は、国家の安全にかかわる報道について、報道機関や記者に情報源を開示させたり、持っている資料や機材を検査する権限を与えられた。
・ 「政治的に偏向している」と判断されれば、その報道機関(活字、ネット、テレビ、に関わらず)は、罰金が科せられる。
と云うもの。
この報道法は昨年の春総選挙で大勝した中道右派が主導し成立させ、5人で構成される報道規制当局は、全員が全てが同党メンバーとなる恐ろしさ・・・・・・
まるで大戦間近あるいは戦中の日本の如き様相です。
これを「人治国家」と言われる国々がやるのではなく、EU議長国と認められた「法治国家」と認識されていた国が、1つの政党の思惑によって「法」としてしまったことがとても恐ろしい。
表現の自由が確保された時代なんぞ、ついぞ今まで無かった・・・ように個人的には思いますが(これは主に宗教的観点ですが)、言論や書物を焼く火は、いずれ人を焼くようになるというのは、焚書坑儒の古くから変わらず世にある暴挙。
この手の法律は次第に人を焼くようになる――と思えてなりません。
昨年末は都の条例について色々と思うところもあり、某宗教団体を支持母体とする議員さん以外には、意見メールも送ってみた管理人でありますが、こんな流れが国家で施行されることを考えると、恐怖以外の何物でもない。
今回の都の条例だって最初はこんな趣旨じゃなかったのに、何故にこうなった?と考えると、今回のハンガリー「報道法」の裏にあるものと同じ匂いがするのです。
確かに「チャンピオン RED いちご」(すいません、分かりやすいよう敢えて具体名を出しました)が、サン・マガ・ジャンプと並んで、小学生低学年や中学年が手にとって立ち読みできるところで売られているのはマズいだろう?!と、アタシも思います。
それを読んで性的な嗜好を自分なりに考え咀嚼し、判断を下す。それにはある程度社会的経験が必要だし、それを10歳に満たない子供に求めても無理がある。
自分なりに咀嚼できる判断力を持たない年齢層が、「15歳以下を犯ロウゼ」的な趣旨で構成された雑誌を簡単に手に取れるというのは、販売側の配慮が足らんのでは?!と、個人的には思う訳です。
(ここら辺、本家がフィルタリングしている事情もあって、「見せたくない」のなら、掲示している側もそれなりに行動すべき!という、そんな自分の考えです)
汚い部分や醜い部分、見られて厭な部分は全部隠せよ!?という主張は可笑しいし、作る側、売る側に責任をすべて押し付けるのも変。でも作り手、売り手の配慮はもうちょっとあってしかるべき・・・・・・・と云うのが本来の趣旨だったはずなのに、こんなにも歪められた条例になってしまったのは、恐ろしいことこの上ない。
規制論を切欠にして、それを利用したい人種には事欠かない・・・今回のハンガリーの『報道法』のショックもあり、言論の規制・統制については、無関心であってはいけないと、心に強く思った管理人であったりします。
そして年末。色々と感じたのが「坂の上の雲」。
あれを見て、「明治人物群、礼賛オンリー」と云う、偏った受け取られ方をしたらどーするんだ、NH◎!?と感じたのであります。
管理人、司馬遼の本は苦手です。マッチョな主人公が多く花や色気に欠け、読みにくい・・・その中でも「坂の上の雲」は『明治解説本』の趣で、非常に読みにくかった!(でも頑張って読んだ!!)
しかし、こんな読解力がないアタシでも、司馬遼が意図した「皮肉」「批判」は分かります(いや、お前がうがった見方してんじゃね!?というのは置いといて・・・)
帝国主義の中、他国の侵略を赦すまじ――と奮起する事情があり、その中で如何に明治人物群は奮闘したか・・・というのは分かりますが、それ以外にもあの本には「批判」が込められている。
民度が成長していない(今もそうかw)なかで、国民は食うや食わずで税金を軍備に投入する。その中で肥大した軍備を手にしたものは、民意に耳を傾けることをしなくなり、それを拾うことを止め、都合の悪い民意を抹殺しはじめ、暴走を暴走と思わず権力を手にしたまま偏った思考で突き進む。
国家ビジョンを持たないまま軍備が拡大し続けた国家の恐ろしさを、あの本で司馬遼は確かに批判している。それは声高でもなく、あえて批判を批判として載せていなくても、読み手がそれを考えるように作られている―――それがあの本の根底にあると感じる訳です。
しかし、あのドラマだと・・・ねぇ?
それは単なる明治群像礼賛ドラマじゃねぇ?!という感じに。
批判・皮肉の部分をスカーーーーっと小気味良いほど削ぎ落としたドラマだけでは、あの物語の意味は全く伝わらないんじゃまいか?と、そんな不安と不満を持った管理人だったりします。