到彼岸〔とうひがん〕・妄想MEMO 人名も地名も難しい・・・
【個人的妄想のメモと気が向いたときの近状記録】 ここはヘルシング同人サイトの2次創作専用のブログです。 妄想の糧やオタの日常を呟いています。 心当たりがないのに、何故か迷い込んでしまった方は、速やかにお帰りくださいませ。
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本日お会いして会話を交わすことが出来たお方から、旦那が人質として連行された場所は、「エディルネ」で間違いなかろうというお話を伺いました。

「ブルサとかマニサじゃまいか?」とも、「でも可能性としては、エディルネか??」と思っていたのですが、旦那が父親(+弟)と一緒だったことを考えるとやはり「エディルネ」だろうと。(のちに父親だけ帰国な訳ですが)

ちなみに「エディルネ」で検索すると、オスマントルコの第二の都市――みたいな説明がウィキに出ていますが、「100年にわたり帝国の実質上の首都」とあるのは、「約90年」と書いたほうが正しいと思われます(こう云う細い所がウィキはちょっと信用ならん・・・)



当時のキリスト教徒の人質でトルコに来たスカンデル・ベグ (かれも旦那と同時代・同様の体験をして、メフメトの反逆者になる) といい、ムラト二世に引き立てられ、メフメト二世の宰相も勤めたマフムト・パシャ (彼も旦那と同じような感じで人質→デヴシルメで改宗し宰相まで上り詰める) も、『エディルネに連行された』とある――と、そのお方は仰るのです。
なので、そこから推測すると、恐らく旦那も連行された場所は『エディルネ』と思っていいのでは?ということでした。

その文献を知りたい!!と申したところ、フランス語と英語の専門書でありまして、当然ワタクシには手に負えない書籍でありました(苦笑)
やはり専門家の方には、そう言う調べるツールがあおりのようで、『蛇の道は、蛇』と思った本日でした。


そして、当時のエディルネの宮殿内にたぶんデヴシルメの施設はなかったんじゃないか?ということなのです。
もともと市街地はかなり手狭な地区で、宮殿やモスク、別荘もドンドンと郊外へと発展した地域 (そこら辺はメフメト二世の息子辺りかららしい) で、後宮すら宮殿内になく外宮にあり、その出入りは宦官が厳しく取り仕切って目を光らせていたらしいとのこと。
(コンスタンティノープルのトプカプ宮の後宮〔ハレム〕も、スレイマン大帝の治世に外宮から内殿に移されたので、もともと後宮は宮殿の外に作られるものだった??)

王が頻繁に出入りする、「王の女を厳重に閉じ込める」後宮すら宮殿外なのだから、人質とデブシルメを教育・育成する施設は、当然宮殿とは別にあったのでは?というお話でした。


そっか〜すると、子供の頃の旦那とか、子供の頃の帝王とか、その周辺のドロドロした出世欲を持った黒人宦官とハレムの住人が一同に顔を合わせるような妄想は、やっぱ無理なんだ〜〜と、改めて実感した本日でした。
(たとえ旦那が宮殿に呼ばれたとしても、別宮の後宮に住む住人とは全く無縁になる訳なんですよ・・・そもそも、『王の女』と他の男性が、よしんばそれが子供でも、顔を合わせる機会がムスリムには全くないので)


そもそも、人質と言ってもムスリム教育と軍事訓練をさせる機関がデヴシルメだから、きっとそう言う学舎が別にあるべきだろうし〜〜
・・・そう考えると、やはり仔旦那と子帝王の因縁な会合を妄想するなら、デヴシルメを場とするしかないよなぁ〜〜と、また変な妄想を考えている現在です。


しかしよく考えれば、オスマンに来た当時、旦那は父親と一緒だった訳で・・・
なのに父親の庇護も受けられず、あんな酷い目にあって処女喪失なんて酷いわぁ〜〜!!と。
考えると、ドキドキしてしまいました(どんなだよw)


しかし、本当にその道の専門家の方の知識の深さには、ひれ伏す想いです。
そして、「そこらへん取り上げるときって、地名と人名の統一に凄く気を配らないと世界観がバラバラになる」というお話もいただきました。

そう、例えば「エディルネ」。
これは「エディルナ」とも言われますが、英語表現だと「アドリアーノポリ」とも「アドリアノポリス」とも言われ、古い表現だと「ハドリアーノポリ」、「ハドリアノポリス」(ハドリアヌス帝の都)。

旦那の名前だって、カズィクル・ベイだったり、ヴラド・ツェペシュだったり、ヴラド三世テーペスだったり、ヴラディスラウス・ドラクリヤだったり、ヴァイヴォード・ヴラド三世だったりする訳ですし。
それにメフメト二世だって、メフメトともマフメットとも、マホメットとも、ムフムトとも書かれる訳ですし。

世界観で地名と人名を統一する作業からして、本当に難しい訳です。
そんな作業をこなす忙しさの合間に、今日ワタクシに知識を授けてくださった某様に、ここでひっそりと感謝を申し上げますm(__)m



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追記〜〜

旦那の処女喪失話を書いたのでついでに。

ちなみに旦那の父が負けたヴァルナの戦いは1444年の11月10日。
この時の指揮官は「ムラト二世」。しかし、スルタンは1444年の8月に即位した、「マフメト二世」。

何故、ブルサの地に引退した父親が戦線にしゃしゃり出たのかと申しますと、宰相(パシャ)たちと、幼い帝王、そして、引退した帝王とそれぞれのパシャたちの権謀術数の権力争いや、イエニチェリの暴動が下地にあります。

結局、指揮権を要求したにも関わらずマフメト二世はパシャたちからそれをはねつけられ (当時12歳だから当然ですが)、先代をブルサに呼びに言ったチャンデルリがムラト二世を担ぎ出して、オスマントルコがヴァルナの戦いに勝利。(これを最終十字軍とする見方もありなので、そうなると旦那の父は、最後の十字軍に従事した・・・とも考えることが可能ですねぇ)
その時の敗戦の結果として、後に旦那は父と弟と一緒にトルコにやって来ております。(どのパシャが『子供たちを人質』とする目的で、ワラキア公にそう言うメンバーで来い!と呼びつけたのかは、調べてません)



しかし・・・・↑ での見解からすると、矛盾が生じるのです。

ムラト二世はヴァルナの戦いでヨーロッパ勢を打ち負かすと、さっさとマニサに帰ってしまっているのです。
戦いに出るときはエディルネに寄って軍備を整え、軍を引き連れて向かいましたが、帰りはエディルネに寄ったとするものがないので、直行でブルサでなく、今度はマニサに帰ったようです。
(ついでにこの後、マニサに宮殿も建てます)。

1444年8月、ラディスラウス(トルコではラースローと呼ばれるボヘミアの王)と和平の話をした時に、ムラト二世はコーランに誓って10年の休戦の守りをたてています(ラースローも聖書に10年の休戦を誓っています)。
そして、ヴァルナの戦いの後も、息子に任せてすぐに隠居〜♪

しかし、ヘルだと、どう考えても旦那を手篭めにしたのは「ムラト二世」。
(ここら辺は昔、旦那の処女喪失の相手は何れかのパシャかも?と検討した考察を載せましたが、「あれはたぶんムラトだろう」という結論に)


旦那は、デブシルメの拠点・首都であるエディルネから引き離されて、ひとりだけマニサに連れて行かれたんですかッ!!と(笑)
ちなみにブルサもマニサもボスポラス海峡を越えたアジア側!
ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパの方にあるエディルネからは遠い上、マニサはブルサよりもさらにエディルネから離れてるんですよ〜(笑)
いえいえ〜旦那が処女を喪失したのはムラト二世がエディルネで帝位に復権した1446年8月以降なんですよ〜とか(笑・あれは15歳には見えんが・・・)

そこら辺、色々と都合が悪い事実が見え隠れしてしまったわけですが・・・・
これはヘルだから、『何も問題はない!!』ということで(笑)




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